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自作小説『鬼師(仮)』

2006年5月22日自作小説自作小説, 短編, 神楽堂

鬼師(仮)おにし(かり)

著者:榊 康生


 町全体を霧のような細かい雨が降りしきっている。
刻は夕刻。
由緒ある大きな木造建築の一軒家の内。
建物内は、古めかしくはあるがよく手入れが行き届いている。
一階は和室に統一されており、畳の部屋にふすまと障子で区切られた部屋が幾つもある。
二階は、洋室風のフローリングの部屋になっている。
茶室からは、日本庭園風の中庭が見える。
代々、生け花の宗家であるこの家は、戦時中も免れ今に至っている。
家の一階に他の和室風の部屋と異なる板張りの部屋の中央に庵があり、赤々と火が入れられていた。
その庵の傍に、この家の女主人である久慈道代(くじ みちよ)の姿がある。
「では、御主人は一月前から行方不明だと……」
道代の正面で姿勢良く正座している青年が言葉を口にする。
歳の頃は17、8だろうか。まだ幼さの残る顔は、少年の実直な性格を表すように生真面目そうな雰囲気を醸し出している。
「ですから、主人が何を依頼しておりましたか分かりませんが、なかった事にして頂けないでしょうか?」
その道代の声には有無を言わさない響きが含まれている。
青年は、しばらく考えこんで、やがて口を開く。
「ですが、もしよろしければ……」
「龍治様、あちらがそう言っておられるのですから、帰るとしましょう」
青年を龍治様と呼んだ男は、青年の後ろに影の様にひっそりと座っていた。
男は、龍治が何か言おうとするのを制すると道代に「失礼しました」と言い、立ち上る。
龍治もしぶしぶながら、立ちあがり玄関に向かう。
廊下には薄っすらと人とは違う気配が満ちている。
かならず居ると思うんだけどな……。
龍治がキョロキョロしていると道代が廊下の先を隠すように立ち塞がる。
「玄関はそちらですよ」
道代に促され、二人は玄関に向かう。

龍治達が家の中でまだ、道代と話していた頃、家の前で霧雨の中、うろうろしている姿があった。
傘は持ってるがこの霧雨の中だと、あまり役には立っていないらしく全身が濡れている。
もう春とはいえ、まだまだ風が吹くと寒い頃なのに、全身濡らしてもどこの家にも入る様子がない。
ただ先程から、古くから続いている立派な屋敷の前を行ったり来たりしている。
服装は、この近くにある女学院の制服だ。
長い黒髪、学校指定の黒い鞄、しかし背中にはキャンプにでも行きそうな大きなバッグを担いでいる。
家出3日目になるこの家の長女、紀美子である。
1日目、2日目と友達の家を転々としていた。
家出をしていることは、友達にも先生にも、誰にも言っていない。
学校で先生に何も言われない所をみると家からは何の連絡もいっていないらしい。
このまま何日続けられるか分からないが、紀美子は家に戻る気はなかった。
前妻の子である紀美子に、後妻の道代は、良くしてくれたと思う。
今も母と喧嘩をして出てきた訳でもなければ、いじめられて出てきたのでもない。
母が恐いのだ。
母が変わり始めたのは、母、道代の赤ちゃんが産まれて少ししてからである。
赤ちゃんを寝室から出さなくなり、誰も近づけようとしなくなった。
誰の説得も聞こうとしなく、なにか狂喜に取り付かれているようだった。
それからしばらくして、厳格な祖母がいなくなった。
母に嫌気が差して旅行でも行ったんだろうと思った。
前にも父と喧嘩した祖母が何も言わず、突然、旅行に出かけてしまい一週間後に帰ってきたということもあった。
しかし、祖母は一月過ぎた今でも帰ってきていない。
父もいなくなった、母がいうには海外の方に出かけているのだという。
しかし、今までどこかに出かけても毎日電話だけはしていた父から何一つ連絡がこない。
その頃から、紀美子は何か得体の知れない恐怖を感じるようになっていた。
家の中にある恐怖。
道代に対する恐怖か分からないが、それはいつまでも収まる事はなかった。
だから家出した。
今日も、家出を止めて戻ってきたわけではないく、明日の授業で必要なものが家に置きっぱなしになっているので取りにきたのだ。
今は、こっそり家の中に入り授業道具だけをどう取ろうか考えている。
先ほど、この辺りでは見ない人達が家の中に入っていった。
一人は、自分と同い年ぐらいの男の子。
もう一人は、30代ぐらいの男性。
どちらもこの町の者とは雰囲気というか、何か感じが違う人達だった。
なんの用事で入っていったのか気になるが、今は詮索している余裕はない。
母がお客と話しているだろう間にこっそりと荷物を取りに行こうと家の前に行く。
扉を開けようと取っ手を掴むが、扉を開く勇気がでない。
母に見つかるかもしれない、そう思うと扉を握る手に知らず知らずの内に力が入る。
そこで紀美子の思考は中断された。
突然、内側から扉が開かれたのだ。扉の向こうには先ほど家に入っていった二人の顔が、そして二人の向こうには母の姿があった。
紀美子は驚きと恐怖で立ちすくんでしまった。
「捕まえて」

先に声を発したのは母だった。
その声を聞いて、咄嗟に逃げようとしたのだが、腕を掴まれる。
腕を掴んだのは、家に来ていた客の一人。
後を振り向くと17、8ぐらいの男の子が手を掴んでいる。
短い黒髪を後に流しており、全体的に整った繊細な作りの顔に意思の強そうな瞳が印象的である。
こんな場面でなければそれなりに好みのタイプだし、嬉しいのだろうが、今は逃げ出したくて腕を振りほどこうもがく。
「離してよ!」
何度も振りほどこうとするが、握られた腕を振りほどく事ができない。
母が近づいてくる。
恐怖に目を瞑ってじっと待つ。
しかし予想とは違い、近づいてきた母は、軽く抱擁してきた。
目を開くと目の前には薄っすら涙を浮かべている母の姿があった。
昔の優しかった頃の母がそこにいた。
昨日迄の恐怖が、気のせいだった様に思えてくる。
そうすると逆に母への愛しさが込上げてきて、涙が出てきた。
この二人は、母が自分の捜索の為に雇った探偵だろうか?
だとすれば、この少し違うような雰囲気も納得がいく。
二人の探偵達は、母と少しの間、娘が家出していて戻って来た事などを話していたが、「失礼します」とだけ言って出ていった。
私は、家に入り濡れた服装を着替えに部屋に戻る。
濡れている服を脱ごうとしているとポケットの中に変な封筒が入っていた。
身に覚えのない封筒を取り出し中を見る。
封筒には、模様だか漢字だか分からないものが書かれた紙切れが数枚と、手紙が入っていた。
手紙に少しだけ目を通し、「わけわかんない」と机の上に放り出す。
そして着替えてから、夕飯の手伝いをしようと下に降りていく。
ギシギシとなる階段を足早に降りて、居間と台所に行くが母の姿はない。
離れの方で音がしたので、そちらに足を向けた。

家から少し離れた喫茶店の中に先ほど家から出てきた二人がいた。
「龍治様、早く帰りませんと電車に間に合いませんが」
龍治の正面に座る男は慇懃にそう言うと、珈琲を淡々と流し込む。
「高宮さん、先程の家でなにも感じませんでしたか?」
「依頼主は居りません。ここに居る理由は何もありません」
高宮と呼ばれた男は、無表情に龍治を見据え、感情を交えずに事実だけを告げていく。
「高宮さん。
僕の質問に答えて下さい」
龍治も負けじと、高宮の目を見据える。
こういう時は、先に目を背けた方が負けなのだ。
しばらくした後、高宮がやれやれと珍しく感情をあらわにする。
「確かに、龍治様と同じものを感じましたよ」
「なら…」
「しかし、我々は依頼があった場合のみ、依頼を遂行するだけです」
「だけど…」
「例外はありません。
龍治様も良く分かっているでしょう」
龍治の意見は、高宮にはまったく受け付けてもらえない。
そんなことは、初めから分かりきっていた。
この高宮は龍治にではなく、御堂家に仕えているのだ。
自分が何を言おうと御堂家の掟に反する事が通るわけない。
通るわけがないと分かっていても納得する事はできない。
「わかった。
なら、この近くで泊れる場所を取ってくれ」
高宮は、龍治を見据えるだけで、動く気配はない。
「依頼は関係ない。
この近くでしばらく観光気分でゆっくりするだけだ」
龍治は、一度決めた事を簡単に変えるような性格ではない。
後は、高宮を巻いて一人で行動するだけだ。
それも踏まえた上で高宮が騙されて、自分を一人にしてくれる事を願った。
「良いでしょう。
ただし、龍治様は私の近くから離れないで下さいよ」
龍治は、いかにも見透かされたという表情になったが、一応、これで半分は成功である。
あの家の様子を探れなくなったのは辛いが、既に手は打ってある。
後は、あのお嬢さんの頑張り次第だ。
「分かった。
一緒に宿屋を探そうか、出来れば美味い料理が出る店が良いな」

食卓の前に4人の姿があった。
私と父と母。
そして祖母。
祖母からは幾つもの旅行のお土産をもらった。
父は、お土産を忘れて、先ほど母と私に散々、怒られていた。
お詫びとして明日は、近所にできたフランス料理店で外食する事に決まった。
祖母は、「日本人は和食だよ」と言って嫌がってはいるが、明日になれば自分が言った事も忘れて一緒に来るに違いない。
いつもと同じ、私の好きな家族である‥‥。
‥‥首が痛い。
後頭部もずきずきする。
気がつくと真っ暗闇の中にいた。
床板の上に横になって寝転がされている。
手も足も自由に動かない、縄か何かで縛られているようだ。
ここはどこだろう、この古臭い匂い。
きっと物置だ。
さっきのは夢だったのか、そう思うと悲しくなってくる。
どうしてここに居るんだろう。
2階の自分の部屋で濡れた制服を着替えて、晩御飯の手伝いをしようと1階に降りて、そして……。
そして、降りたところで母と赤ちゃんがいる部屋に入って……、入って、それでどうしたのだろう。
なにか頭の中が混乱している。
これは、家出したお仕置きだろうか、それにしては酷すぎだと思う。
でも、時間がたてば出してもらえるに違いない。
小さい頃はいつも悪い事をしたら物置に閉じ込められたものだ。
私が泣いて、泣き疲れた頃に、物置の扉が開けられ母が出してくれたのを覚えている。
目が慣れてくると周りのものが見えてくる。
微かに廊下から明かりも漏れてきている。
そう言えば、先程、制服に変な手紙と紙切れが入っていたな。
家の前であの子に捕まった時に、入れられたんだろうか。
新手のナンパにしては、良く分からない手紙だったな。
「身に危険が迫ったときに、この札を使ってくれ」とあったような気がする。
そして、おかしな模様のような文字のようなものが沢山書込んである紙切れが入っていたのだ。
確か、あの紙切れは机の上に置いていたな。
こーいう時に、使えば良いのかな。
身に危険っておかしな話だよな。
後頭部の鈍痛が思考を鈍らせる。
暗闇が自分の中に染み込んできているみたいだ。

物置に近づく足音で紀美子は目を覚ました。
物置の扉を引く音がするが、立て付けの悪くなっている扉はすぐに開かずガタガタと音を鳴らしている。
「紀美子、開けなさい。
今すぐ開けなさい」
扉の向こうから聞こえる母の声は、昔の母でなく、最近の狂喜に憑かれたようになってからの母の声である。
物置から出してもらえるはずなのに、背筋から悪寒が走り体が恐怖を感じている。
もがいて動こうとするが手足が縛られていて動けない。
足の結び目に手を伸ばし、結び目を解こうとするが慌てれば慌てるほど指が動かない。
やがて扉が開き母の姿が見える。
暗くて顔は良く分からないが、母は笑っているようだ。
その手には、普通の赤ん坊の二倍はありそうな巨体の赤ん坊が抱っこされている。
母が半年ちょっと前に出産した赤ん坊で、名前を憲太という。
ここ2ヶ月程、家族の目にすら見せないように母がしていたので、2ヶ月ぶりに見たことになる。
憲太は、母の腕で巨体を揺すって、何かしゃぶって、口をクチャクチャさせている。
憲太がこちらを向いて、ニヤリと笑うと口に噛んでいたものをこちらに吐き出す。
それは白っぽく楕円形で、渦巻き状に溝が入っている。
「‥‥‥いやぁぁあぁぁぁ~!!」
それが人間の耳であることに気付き、搾り出すような悲鳴が口から溢れる。
「化け物!!」
紀美子は声の限り叫んだつもりだったが、喉を奥が恐怖に引きつって掠れたような声がしか出ない。
「まぁ、私の可愛い赤ちゃんが化け物ですって。
そういう貴方こそ、醜いくせに」
母の道代の声は、まるで別人のような響きを持って聞こえてくる。
「ママ、ああいう奴には、キツーイお仕置きしないと」
道代の抱く、醜悪な赤ん坊は、人の声と言うより何か別の猛獣が無理に人の声を出しているようなそんな不快な声で答える。
「そうね、二度と私の赤ちゃんの悪口を言えなくなるような、お仕置きをしないとね」
そのやり取りを聞いていた紀美子に恐怖が沸き上がる。
祖母や、父もこの二人が、いや、母とこの化け物がなにかしたに違いない。
「ねー、父さんやお婆ちゃんに何をしたの?」
質問する声は既に震えている。
「私の赤ちゃんに酷い事をしようとしたから懲らしめたの」
「そうそう、あの年寄りは筋だらけで美味くなかったし、男の方も堅くて不味かったよ」
無感情に響く道代の声に、悪寒もあらわに赤ん坊のような化け物の声が響く。
その言葉に体の力が全部抜け、力無く横たわる。
「じゃーお仕置きしましょうね」
母の嬉しそうな声が響いてくる。
「ママ、今度は僕に狩りをさせてよ」
恐怖に体が動かない。
どうせ逃げられないんだ、だったら、このまま死んで父の元に行こう。
そんな悲壮な考えが頭を占める。
「だけど、さっき晩御飯食べたでしょ。
食べ過ぎはいけないわ」
「でも、今すぐ食べたい。柔らかそうなお肉を今すぐ食べたい」
やや間があって、母の声がする。
「やっぱり今は駄目、夜食にしましょう。夜食に」
足音が遠ざかり、物置の扉が閉められる。
再び静寂と暗闇が辺りを占める。
悲しみと恐怖で、涙が溢れてくる。
暗闇の中、声を押し殺して泣きつづけた。

1、2時間ほど泣きつづけたら頃だろうか、少しだけ生きようとする気持ちが戻ってきた。
自分の部屋にある手紙が思い出される。
身に危険が迫ったらこの札を使って下さい。
この今までの現実を全て壊してしまうような状況で、何故かあの札だけが救いのように思えた。
あの札は机の上にあるはず。札の使い方が書かれた手紙は机の下のごみ箱の中に。
札を取って、ごみ箱から手紙を取って、札の使い方を見れさえすれば、何とかなるのではと思える。
なんとかここを抜け出して、部屋まで行かないと。
まずは、縛り付けられている手と足を解かないといけない。
慎重に足の結び目を解いていくと、ほどなく結び目が解けた。
手の結び目を解こうとしたが、指が届かなく、結局解く事が出来なかった。
そこへ再び足音が近づいてくる。
物置の前に止まり、扉が開く。
咄嗟に、横になり足首が縛られたままのような見せかける。
物置に明かりが入りこむ。
その入口には、先程より大きくなったように思える赤ん坊の姿をした化け物と母の姿があった。
その表情は狂人のそれである。
「さぁ、坊や。
夜食の時間ですよ」
1メートル近い赤ん坊は、自ら床に降り。不器用に立ち上がりこちら近づいてくる。
もし、この物置から出るのに失敗したら、あの不気味な赤ん坊に生きたまま食べられるのだろうと思うと、力が抜けそうになる。
だけど、どうしても二階に行かなければいけない。
二階にさえ行けばなんとかなるにちがいない。
そう強く言い聞かせて赤ん坊が近づいてくるのを待つ。
たぶん、チャンスは一度しかないだろう。
不器用に歩いていた赤ん坊は、物置に散らかっているものにつまずいて転んだ。
後ろの母が、驚き駆け寄ろうとしている。
今しかない!
脱兎のごとく立ち上がり、物置の扉に向かって走り出す。
「だぁ~~!!」
気合の掛け声を上げ、転んだ化け物を踏みつけて、母に体当たりを行い。
その勢いのままに二階に昇って行く。
自分の部屋に入ると内から鍵をかけ、飛び出しそうな心臓を抑えるように荒くなった呼吸を繰り返しながら、机にしがみつくように駆け寄る。
机の上の札を探すが見つからない。
その間にも、扉を叩く音は激しくなる。
制服のポケットにも鞄の中にも見当たらない。
今にも泣き出したくなる気持ちを押さえて必死に札を探す。
その時、扉が一際大きな音を立てて開いた。
扉の向こうには、扉に体当たりでもしていたのだろう髪を振り乱した母がおり、その足元には不気味な赤子の姿がある。
母は、手に一枚の紙を取り出した。
「これだろ?
探しているのは」
狂人の響きのある甲高い声は、まるで別人のように思える。
母の持つ紙は、紀美子が必死で探していた札であった。
「ど、どうして‥‥」
紀美子はそれを言うのがやっとである。
母は、それを両手で持つとゆっくりとビリビリと破いていく。
破かれた紙は突然、燃え上がり。驚いた母が手を振って火を払い除ける。
その瞬間を逃さず、紀美子は再び母に体当たりし、その勢いで部屋を出て闇雲に逃げ出す。
その少し後から、母が自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
どこをどう逃げたのか、気づいたら中庭に出ていた。
母が正気であった頃は、手入れが行き届き奇麗な庭だったのだが、今では、花は枯れ、雑草は茂り、見る影も無くなっている。
空には、満月が輝いている。
昔の事を思い、現実逃避したくなる心を押さえつけ、隠れられそうな薮の中に身を潜ませる。
その時、廊下から声が聞こえてきた。
声は段々近づき中庭の手前で止まる。
「さぁ、出ておいで。
ここに居るのは分かってるんだよ」
声が中庭に降りて、近づいてくる。
紀美子は目を固く閉じながら、声が過ぎていくのを待つ。
しかし無情にも声は紀美子の前で留まり、髪を掴まれ薮から引き釣り出される。
「母さん、どうして、どうしてこんなことするの?」
紀美子は涙ながら母に問う。
このまま殺されるのは、納得できない。もし逃げられないとしても、せめて理由ぐらい知りたいと思った。
しかし、声は母に届いている様子はなく、夢見るような表情でただ赤子抱いている。
「ママ、早く、早く、食べたい」
母の腕から飛び降りた赤子は、素早く這い寄ってくると脹脛に噛み付いた。
激痛が走り苦痛に顔が歪む。
赤子の口には赤い肉片がくわえられている。
痛みを堪えながら逃げようとするが、噛み付かれた脚が思うように動かず、転んでしまう。
肉をガムのようにクチャクチゃ噛みながら、這うように逃げる様子を楽しげに眺めている。
肉を飲み下すと、再び、紀美子に噛み付こうと這い寄ってくる。
その時、紀美子と赤子の間の地面に一枚の紙が突き立ったと思うと、その紙が1メートル程の炎を上げて燃え上がる。
炎が上がった後、どこから現れたのか、紀美子の前には一人の男の子が立っていた。
歳の頃は、17、8だろうか、細面で意志の強そうな目をした青年は、みようによってはもっと年上に見えなくもない。
何気なく、立っているだけなのに何か人を寄せ付けないような頑なさが感じられる。
「あ、あなたは?」
紀美子は、風のように現れた青年にそれだけ問う。
「龍治」
龍治は振り返りもせず、それだけ言う。視線は、目の前にいる赤子から離そうとしない。
「あんたは、今日、来た」
母が、上ずった声で言う。
「もう依頼は、反故にしたはずですよ」
「確かに‥‥」
龍治は、振返って歩み去ろうとする。
「ま、待ってよ。見捨てる気!」
去ろうとする足にしがみついて、紀美子が叫ぶ。
「依頼がなければ、何にも関わらないのが掟だからな」
龍治は無関心に告げる。
「そんな、このまま見殺しにするっての!!」
「依頼がなければ、そうなる。まぁ、依頼ならば助けるがな」
「じゃー、依頼する。依頼します。だから、助けて」
話し込んでいる龍治の背後から赤子が襲いかかろうと近寄る。
が、龍治の手から放たれた札が顔に張り付き、赤子の身動きを止める。
「な、なにをしたの」
「邪魔だから、しばらく動けなくさせてもらった」
母が声を荒げて問うのに、平然と龍治が答える。
「なら髪を一本渡せ」
「髪?」
龍治の言葉に素っ頓狂な声を上げる。
「そうだ、依頼の成立の証として髪の毛が必要なんだ」
紀美子は、慌てて髪を引っこ抜く、思わず「痛っ」と叫んでしまう。手には、数十本の髪が握られている。
その髪の毛を龍治に渡す。
「これで依頼成立だ」
龍治は、紀美子を抱き上げると、一気に数メートルを跳び、庭に降ろす。
「危ないからじっとしていろ」
それから再び向き直ると赤子の方に向かっていく。
赤子に貼られた札は母が取っていた。
赤子は母の腕から降りると、赤子とは思えない速さで、飛びついてくる。
龍治が、飛びつく赤子を避けて、手から札が放たれる。
「炎陣符」
龍治から放たれた札が赤子に触れると同時に燃え上がる。
その炎は、瞬く間に赤子の全身に回る。
母が半狂乱の声を上げ赤子に駆け寄るが、赤子の全身を嘗め尽くした炎は、突然燃え上がったのと同じように突然消える。
後には、黒焦げになった赤子の死体と異臭が漂っている。
母は、その前でくず折れ、黒焦げになった赤子を抱き上げると、静かに子守唄を歌い始める。
辺りは、本来の静寂を取り戻す。
紀美子が痛む足を庇いながら、母の元へ行こうとしたとき、黒焦げの赤子の死体が大きく跳ねた。
そして背中が異常に蠢く。
背中だけではない、顔も手足も、まるで骨格が無いかのように異常に鳴動する。
「鋭刃符」
龍治の手から放たれた札は、赤子ではなく、赤子を庇うように抱きかかえる母の腕に刺さる。
母が、愛しそうに蠢く肉塊を抱きしめる。
「離れろ!!」
龍治の鋭い声に、母がこちらの方に狂人特有の夢見るような瞳を向ける。
肉塊が膨れるようにして一際膨らむと母の体を覆い尽くしていく。
母は、夢を見るような空ろな瞳を大きく見開き、そのまま肉塊に取り込まれていく。

…両親がなくなり身寄りのない娘の元に縁談が持ち上がった。
会ったこともない相手だった。
親子ほども年の離れた男であり、その男には、子供もいた。
しかし、周りはこぞって良縁だ、良縁だと騒ぎ立てた。
相手は、古くから続く生花の宗家だという。
小さな田舎町では、その宗家の言うことは絶対だった。
宗家の前の嫁が、跡取の男の子を作らないまま、この世を去った。
葬式の夜、宗家の老女主人が、「跡取の男の子をつくれる嫁を連れてきな」と言った。
そうして、娘は宗家に嫁ぐことになった。
それからは、いつも辛かった。
老女主人になじられ、叩かれ。
何年たっても子供はできず。
老女主人になじられ、叩かれた。
五年目にして初めて子供が出来た。
玉のような男の子が生まれるはずだった。しかし、流産した。
宗家に伝わる高価な茶碗を割ってしまい、老女主人に雨の中、一晩外に出された夜のことだった。
それから、三年後、再び子が出来た。
しかし、それは女の子だった。
それを老女主人に言うことができず、男の子が出来たと偽った。
遠くの病院で一人で産み。
家に連れ帰ってからも、オムツもお風呂も一人でやり、決して女の子と悟られまいとした。
しかしそれが長く続くわけもなく、ある日、赤子の泣き声に駆けつけると、老女主人が赤子を打っていた。
女は、止めに入ったが、老女主人に叩かれた、「男の子はどこだ?」といっては叩かれた、赤子も叩かれた。
老女主人は、気が触れた鬼のように叩きつづけた。
女は、赤子が殺されると思い、近くにあった壺を老女主人に叩きつけた。
老女主人は、動かなくなり。
既に赤子も動かなくなっていた。
女は、部屋を閉ざし、誰も近づけなかった。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、女は子守唄を歌いつづけた。
女は狂っていた、そして世界も狂っていた。
女は、老女主人を呪い、自らを呪い、子守唄を歌いつづけた。
八日が過ぎる頃、気が付くと赤子が見当たらなかった。
音に振り向くと、異臭を放ち始めた老女主人に被さるように赤子が蠢いていた。
「私の赤ちゃん…」
赤子は、振り返ると死んだ魚のような目で見返してきて、こう言った。
「もっと血と肉を…」
それから道代の悪夢が現実になった。

青年の放った札が燃え上がり、赤子を焼き尽くした。
後に残るは、黒焦げに燻っている肉隗。
目の前が血の色に滲んでいく。
駆け寄り肉隗を抱き上げ、子守唄を歌う。
そうすれば、いずれ動き出すはずだから。
赤子の肉隗が大きく跳ねる。
ぶよぶよと蠢き、別の生き物のように、肉の花が咲くように大きく前面に広がると体を包み込むように全身を覆っていく。
塞がれた口が酸素を求めて喘ぐ。
闇が覆っていく、何も見えず、何も聞こえず。
だけど、赤子の声だけが耳の奥で、全身に染み渡るように反響を繰り返す。
「もっと血と肉を…」

小さな悲鳴が上がり、肉塊の隙間から血が飛び散る。
紀美子は、目を逸らし嘔吐した。
膨れ上がった肉塊は、やがて人型を成す。
しゃがんでいて分からないが、立ち上れば3mを軽く超えるだろう巨体は、筋肉の固まりのようである。
顔は、醜く歪み、口元には牙が突き出ている。
そして頭には、髪の毛はなく、一際大きな角のようなものがついている。
その姿は御伽草子に出てきそうな鬼の姿をしている。
「お、鬼‥‥」
紀美子は、目の前で繰り広げられている現実場慣れした出来事に半ば放心状態になりながら小さく呟く。
「そう呼ぶ者もいるな」
鬼は、地から響くような声で言う。
「これで、貴様に勝ち目はなくなったな」
鬼は立ち上がり、龍治を見下ろしながら勝ち誇った声を上げる。
3m半の巨体と1m70程の青年が対峙する様子は、誰の目にも勝負は分かりきっているように見えた。
「図体がでかくなって、お喋りになったようだな」
龍治は、不敵に笑うと手に数枚の札を取り出す。
「鋭刃符」
龍治の手からまっすぐに鬼の胸元に数枚の札が突き刺さる。
だが鬼は、突き刺さった札を取るとそれを粉々に砕く。
「ならば、炎陣符」
投じられた札に対し、鬼は拳を突き出す。拳に触れた札は、一瞬火花を散らすと共に燃え尽きる。
鬼は、一気に龍治の目の前まで跳躍し、腕を振るう。
腕は、龍治を跳ね飛ばし紀美子の近くに生えている木に叩き付ける。
そのまま地面に転がった龍治は、最後の力を振り絞って数十枚の札を投じる。
札は、鬼に届かず。手前の大地に突き刺さる。
「弱いな。もう終わりのようだな」
鬼は、血を吐いて苦しんでいる龍治に侮蔑の視線を投げつけながら一歩一歩と近づく。
龍治は、木に持たれながら辛うじて立ち上る。
その前に鬼がそびえる様に立っていた。
「最後に、一つ聞きたい。
なぜ、あの赤子に取り付いていた」
「ゲームさ。人もよくやるだろう」
鬼は、顔を歪めて醜い笑みを浮かべる。
鬼が振り下ろした腕を身をよじりながら避け、鬼との間を空ける。
その時、鬼の背後に雷が落ちたかのような光が上がった。
光は、先ほど地面に突き立てられた札から発せられている。
「先程の札は、龍陣符。
この地に、地脈を導いた」
淡く光る札が地面から抜け、フワフワと漂うように龍治の手に収まる。
札は、一際強く光り龍治の手元を光りが包む。
すぐに光は収まり、龍治の手には光が形を成したような刀が握られている。
「お前の、GameOverだ」
龍治が刀を構える。
鬼は、飛び退き距離を置く。
「その体で、斬れるかな」
鬼は、低く身構えいつでも飛び掛かれるようにしている。
お互いに相手の出方を伺い動きを止める。
動きを止めたまま短い静寂が流れる。
ほんの1秒が1分にも感じられる。
先に動いたのは龍治だった。
お互いが素早くぶつかり合う。
龍治が、鬼の払う腕に飛ばされ、そのまま孤を描き壁に叩き付けられる。
手には、刀が握られていない。
鬼も、手を振り払ったままの姿勢で動かない。
彫像が倒れるように、動きを固めた鬼が倒れる。
その胸には、龍治の刀が突き立っていた。
「鬼が…」
紀美子は、鬼が倒れるのを見つめながら、意識が遠のいていく‥‥。

龍治と高宮の姿が、電車の中にあった。
「肝は?」
「この通りここにある」
龍治が示す先には、小さな箱がある。
高宮はそれをとり、何かを確認するようにうなずくと再び置く。
「かなりの大物だったみたいですね」
高宮の言葉に答えず、龍治は箱をしまい込む。
「私が行かなければ、死ぬところだったんですよ」
「ありがたいと思ってる」
龍治は窓の外を眺めながら淡々と答える。
「報酬は?」
龍治はしばらく黙っていたが、やがてポツリと呟く。
「出世払‥‥」
高宮は一つ溜め息を吐くと座席に深々と座り込んだ。

目を覚ました時、紀美子はベットの中に居た。
全ては夢だったのだろうか。
痛みもなく、傷も塞がっているが、確かに残っている脚の傷痕が、あの出来事が全て現実だと物語っていた。


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Posted by ともやす