自作小説『スプーン』
キーワード 【手紙】 【スプーン】
『スプーン』
著者:榊 康生
「ただいまぁ~」
春樹は、ずぶ濡れの姿で玄関の扉を開けた。
家の中からは誰も姿をあらわさないし、返事も聞こえない。
後ろ手に扉を閉めた音だけが家の中に響く。
濡れた靴を脱ぎ捨てると、そのまま階段を上り二階の自分の部屋に入った。
廊下や階段には服や髪から落ちた水と濡れた靴下の跡が残る。
部屋で、学校の制服を脱ぎ床に放り出すと服からしみ出した水がじっと床を濡らす。
髪の毛を拭き、私服に着替え、放り出した学生服を取って窓際に吊す。
窓の外はどんよりした雲が空を覆い、強めの雨が降っていた。
「やみそうにないな」
窓際から離れ、ベッドの上に座る。
枕元の目覚まし時計が、午後6時半をしめしていた。
もうそろそろ晩ご飯でも食べようか。そう思い立ち上がった視界に、今朝と違っている机が目に入る。
「また入ってきたのか。勝手に入るなって言ってるのに……」
今朝まで机の上の大半を散らかった本やノート、文房具などが占めていたのに、机の上が綺麗に整頓されていて、今朝までなかった封筒が置かれていた。
俺が学校に行ってる間に母親が勝手に部屋に入ってきたんだろう。
春樹は封筒を手に取る。
「人の手紙までチェックするなんて!」
既に封筒の封は切られていた。
春樹は沸いてくる怒りに声を荒げる。
ベッドの上にドカっと座り、封筒を机の上に放り投げる。
封筒は綺麗に放物線を描いて、机の上に乗る。
封筒が机の上に乗る時、軽い『カッ』という音をが聞こえた。
「なんだ?」
春樹は、立ち上がり再び封筒を手に取る。
封筒は、薄汚れていて、水溜りにでも落としたような塗れた跡が汚く付いている。
文字は、水性ペンで書いてあったらしく、文字がかなり滲(ニジ)んでいる。
表の自分の宛名すら春樹には読むことが出来ない。
当然、裏の差出人の名前も、滲み過ぎで、読むことが出来なかった。
封筒の中を覗いてみると、手紙と何か、細長いものが入っているようだ。
封筒をひっくり返して中のものを出すと、手紙とスプーンが出てきた。
スプーンは、スープとかを飲めるような大きめなもので、青いプラスチックで出来ているようだ。
柄には幾何学的な模様があり、先には春樹が小学低学年ぐらいの頃にTVでやっていたヒーローものの悪のライバルが描かれている。
「どこかで見たような気がするな……」
だが、どこで見たのか思い出す事は出来ない。
手紙の方を開くと、文字が酷く滲んでいて何が書いてあるか読むことも出来ない。
もう一度、スプーンを見るが、どこかで見たような気もするのだが、どう考えても思い当たらない。
なにか、大切なことだった様な……。
しばらく、考えたが何も思い当たらなかった。
段々、スプーンを見たような気がしていたのも、単なる気のせいのように思えてくる。
いつのまにか、時間は午後7時をまわっていた。
「晩御飯でも食べよ……」
手紙とスプーンをベッドの上に放り出すと、下の階に降りていく。
居間には誰の姿も見えない。
いつもの事である。
両親は共働きをしており、いつも帰りが遅い。
半月ぐらい顔すら合わさない事もたまにある。
世に言う各家族というやつだ。
居間の明かりを点けるとそれほど広くもない居間が、広々と感じられる。
テーブルを見ると、上に電子レンジで暖めるだけのレトルトカレーが置いてあった。
「またかよ……」
春樹は、うんざりした顔つきでレトルトカレーを見る。
ここ10日間で、7回目のカレーである。いくら、カレー好きの春樹でも、さすがに飽きてくる。
それでも、他を探さない辺りが、毎回似たようなレトルト食品に慣れているというか、カレー好きなのだろう。
俺、こんなカレー好きだったっけ……。
昔は、もっと好きなものがあったようにも思うけど、レトルト食品ばかりで、バリエーションの乏しい食生活を続けている内にそのようなものが頭からなくなってしまったような気がする。
テレビのリモコンを見つけ、テレビをつける。
36型の大画面にお笑い芸人のアップが写る。
笑い声やら賑やかな話し声がテレビから溢れ出す。
司会者のお笑い芸人が、芸能人達と面白おかしく話をするトーク番組だ。
テーブルの上のレトルトカレーを箱から取り出し、電子レンジに入れる。
これで、5分後には立派なカレーライスが出来上がる。
冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注ぐ。
高校生になっても未だに低い身長を気にして、去年から毎日一杯、牛乳を飲み続けているのだ。
しかし、今の所、牛乳の効果は表われていない。
『チーン』
電子レンジが鳴り、レトルトカレーを取り出す。
レトルトカレーの容器の蓋を開けるとレトルト独特の濃い匂いが辺りに充満する。
テレビの正面にある椅子に腰掛ける。
レトルトカレーについてきた、プラスチック製のスプーンを使ってカレーを一口食べる。
決して不味(マズ)くはない、どちらかと言うと美味いのだと思う。
だが、何か物足りない気がする。
テレビから一際大きな笑いが漏れる。
何も考えずテレビから溢れる光を見詰めながら、黙々とカレーを食べる。
物静かな居間で、遠くの雨の音とテレビの笑い声だけが響き渡っていた。
いつもと変わらない、いつもの晩御飯だった。
晩御飯が済んだ後も、居間でテレビを見ていた。
夜の9時をまわった頃、ファックスが紙を吐き出した。
紙には、母の字で『仕事で遅くなる、早めに寝るように』と書かれていた。
春樹は、紙を丸めてごみ箱に向かって投げる。
ごみ箱の縁に当たった紙屑は、ころころと床に転がる。
床に転がった紙屑を拾おうと立ち上った時、体中に悪寒が走った。
先程から妙に頭がだるかった。
薬棚にある体温計を持ってきて熱を測る。
椅子に深々と寄りかかりながら体温を測り終わるのを待つ。
『ピッピッピッ……』
体温計を取り出し熱を見る。
体温計は、38.2度を示していた。
道理で頭がだるい訳だ。
熱があると思うと余計に、だるいような気分になってくる。
薬棚から熱冷ましの薬を探すが見当たらない。
気休めにと、咳と鼻水に効くという風邪薬を飲んだ。
テレビからは、相変わらず笑い声が漏れていた。
春樹は、風邪薬を飲んだ後、二階の自分の部屋に戻った。
暗い部屋の明かりも点けず、そのまま、だるい体をベッドの上に投げ出す。
布団の中に潜り込み、真っ暗な天井を見上げる。
体がだるくて、頭が重い。
意識が次第に朦朧(モウロウ)としてきて、現実か、夢か、妄想かも分からない支離滅裂(シリメツレツ)な思考が頭を巡る。
……苦しい。辛い。
こんなことなら、ちゃんと傘を持っていけば良かったな。
帰ってきてから、お風呂でも入って温まれば良かったな。
寝込んでいるのを知ったら、親は心配するだろうか?
それとも気づきすらしないのだろうか?
友達に借りていたCDまだ、返してないんだよな。
数学の宿題してないな、担任の吉田、怒るかな。
そういえば、前にもこんなことあったな。
凄く熱を出して、死にそうな思いをしたのが……。
いつだったろう……、去年? それとも一昨年?
いや、もっと昔だったような……。
確か、10年ぐらい前だった。
凄い土砂降りの雨だった。
台風か何かが来てたのかもしれない。
雨の中、じっと立ち尽くしていた。
渡すことの出来なかった手紙を持って……。
いつも遊びに行くとシチューを食べさせてくれたおばあさん。
そして、優(ユウ)ちゃん……。
そうか、あのスプーン……。
忘れていた。忘れちゃいけない大切なことを……。
春樹は、お化けでも出そうな古びた洋館の前に立っていた。
だが、春樹にとっては懐かしい建物である。
春樹は、門ではなく塀にそって裏側まで歩いていく。
そこに子供が一人通れるぐらいの穴があいている。
その穴を潜って入ろうとしたが、今の春樹では穴が小さすぎて入ることすら出来ない。
しょうがなく門に戻ってきて門を押すと、『ギギーッ』と鳴りながら門が開いていった。
門を入り雑草が生えている庭を横目に扉の前に立つ。
襟(エリ)を直して、服の埃(ホコリ)を払い、真っ直ぐ立つ。
扉の真ん中には、ライオンの口に咥えられている輪があり、昔は背伸びをしても届かなかった輪が、今なら楽に掴むことが出来る。
春樹がドアをノックすると「はいはい、今出ます」と甲高い返事が聞こえる。
扉が開いて、ピンクのフリルのワンピースを着た8歳ぐらいの女の子が出迎えてくれた。
「久しぶりだな、優ちゃん」
春樹は、顔を綻(ホコロ)ばしながら、優ちゃんに挨拶(アイサツ)をする。
「なによ。とっても遅かったじゃないの」
優ちゃんは、ホッペを膨らませ仁王立ちになって怒っている。
「ごめんよ。でも、ちゃんと間に合っただろ?」
春樹は、女の子に頭を下げる。
「まったく、いつから口答えなんかするようになったの。でも、いいわ。特別、許してあげる」
優ちゃんは、にっこり笑うと家の中に入れてくれた。
「お婆さまが、待ちくたびれてるから、早く行きましょ」
優ちゃんは、先をスタスタと歩いていく。
「優ちゃんは、全然変わらないな」
優ちゃんのお姉さん気取りの口調もなにもかも変わっていない。
春樹の言葉に優ちゃんが足を止める。
「春くんは、とっても大きくなっちゃったね」
振り返らずに、それだけいうとまたスタスタと歩き出した。
10人は座れそうな長いテーブルの端に優ちゃんのお婆さんが座っていた。
「よく来たわね。さぁ、シチューを召し上がれ」
春樹たちは、お婆さんの両隣に固まるように座った。
テーブルには、昔、よく食べに来たシチューが置いてある。
しかし、春樹の前にだけスプーンが置いていない。
優ちゃんがシチューを食べ始める。
「どうしたんだい?」
食べようとしない春樹にお婆さんが声をかけてくる。
「食べたいんだけど、スプーンが……」
春樹が、すまなそうに言うと、優ちゃんが食べるのを止めて、口元を拭いてから口を開く。
「なに言ってるのよ。いつもマイスプーンとか言って、自分のスプーンを持ってきていたでしょ」
マイスプーン? ポケットを探ると、青いプラスチックのスプーンが出てきた。
春樹はそのスプーンで、シチューを一口食べた。
「とっても、美味しい……」
シチューは、忘れていた懐かしくて悲しい味がした。
「泣くほどシチューが好きなの? まったく、春くんのシチュー好きには困ったものね。春くんが来ると、いつもシチューになっちゃうんだもん」
優ちゃんが、呆れた顔でいる。
春樹は言われて初めて、自分の頬を涙が伝っているのに気づいた。
「春くんは、体ばかり大きくても何も変わってないのね。」
隣に来た優ちゃんが春樹の服を引っ張る。
春樹が優ちゃんの方を向くと、金色のスプーンを差し出している。
「なに?」
春樹は、不思議そうにスプーンと優ちゃんを見比べている。
「これあげるから、泣き止みなさい」
春樹がスプーンを受け取るとクルっと後ろ向きになり「本当、いつまでもあんなお子様スプーンじゃ可哀想だからね」と憎まれ口をたたく。
春樹は苦笑しながら、ポケットから手紙を取り出す。
「優ちゃん、これ」
手紙は既に、雨で濡れて文字が滲み、薄汚れて読めるような状態でなかった。
優ちゃんは振り向き、にっこり笑うと手紙を受け取ってくれた。
10年前に渡すことが出来なかった手紙。
「水生ペンで書いちゃったから、雨に濡れてもう読めないかもしれないけど……」
「わかってる。ありがとう」
優ちゃんは、春樹の方をじっと見ると満面の笑みを浮かべる。
「ねぇ、本当にこれで良いの?」
春樹は微笑もうとするが、泣き笑いのような表情にしかならない。
「この家がね、最後に春くんに逢わせてくれたの。でも、それももう駄目なの」
優ちゃんは、諭すように春樹に話し掛ける。
「もう、なんともならないの?」
頬を伝わる涙を拭おうともしないで、春樹が問い掛ける。
「良くはないけど、どうしようもないの。過ぎた事だから」
優ちゃんは、悟ったような笑顔でそう答える。
「もう時間だわね」
春樹と優ちゃんのやり取りを、暖かく見守っていたお婆さんが口を開く。
「うん」
優ちゃんが少しだけ寂しそうに頷いたが、こちらを向いた顔は笑っていた。
「春くん、ありがとうね」
目が覚めた時、春樹はベッドの中にいた。
窓から光が漏れている。
「もう朝か……」
まだかなり頭が朦朧としている。
昨晩は、朦朧としていて色々な夢を見たような気がする。
その中に、とても哀しい夢があったような気がするのだが、どんな夢だったろか。
確か……。
『ビビビビビビビビッ……』
突然、鳴り始めた目覚まし時計を止める。
目覚まし時計は、朝の7時をしめしている。
頭が重くて、動きたくない。
瞼を閉じると、再び眠りの中に落ちた。
目を開けると、既に朝の8時を回っていた。
まだ頭は重かったが、休むにしても体温だけは測らなければと思い起きる。
立ち上がろうとして、ふらついてベッドに座り込む。
こんなことなら、体温計を持って来るんだったと思うが、今更である。
危なげに階段を下り、居間に入ると仕事支度をした母が居た。
「もうこんな時間よ、学校大丈夫なの?」
母は、チラッとだけこちらを見ると新聞に目を移す。
「今日は、具合悪いから学校休もうと思うんだ」
春樹は、テーブルの上に置きっぱなしになっていた体温計を取り熱を計り始める。
「そう。無理しないで暖かくして寝てるのよ」
母は、新聞をテーブルに置き鞄を持って立ち上がる。
つけっぱなしのTVから、無表情なニュースキャスターが、昨夜、無人の家屋から火が上がり全焼したと無感情な声で伝えている。
「今、ニュースで言ってたけど、近所に誰も住んでいない、お化けでも出そうな洋館があったでしょ? あれが、突然燃え出したそうなの。もしかしたら放火かもしれないんですって。春樹も気を付けてね」
母は足を止めてTVを見ながら言う。
何故(ナゼ)か分からないが、胸を刺すような哀しみを一瞬感じた。しかしそれは、頭が重く、具合が悪い気持ちにすぐかき消されてしまった。
「春樹? 泣くほど具合が悪いの?」
母は、こちらを心配そうに見ていた。
「泣く?」
春樹が無造作に頬に手を当てて、始めて涙が流れている事に気づいた。
「あれ? どうしたんだろう?」
涙は拭っても拭っても、止めどもなく溢れてきている。
「ごめんね。もう時間がないから先に行くけど、大丈夫?」
母が時計を気にしながら、心配そうに声を掛けてくる。
春樹は大きく頷いて「大丈夫」と答える。
居間を出て行こうとしていた母が、こちらを振り返る。
「今晩は早く帰ってきて、久しぶりに何か作ろうと思うけど何が良い?」
「うーん、シチュー……」
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