病はキから
人外魔境というのは、たぶんこんなとこだろうと思うようなところにその森はあった。
その森には、一人の爺さんだけが、土地守として住んでいた。
それ以外には、民家もなく、一番近い村でも一週間は歩かなければいけない。
だが、そんな地にあっても何人もの人間がこの森を訪れていた。
ある者は行き着く前に斃れ、ある者はこの森の中で斃れ、そして極稀に森から生きて戻るものも長くは生きられない者がほとんどだと聞く。
それほどのものが、この森にはあるのだという。
そのあるものは、幸福の実と言われていた。
その実の食することができれば、その者は永遠の幸福を得ることができるのだという。
そんな御伽噺のようなものを求めて、数多くの人がこの森を目指して旅たっていた。
そしてその話しを耳にした俺も、同じく旅立ち、この森にたどり着いたはずだった。
何故、たどり着いたはずというかというと、森に標識がある訳でもなく、ただ突如、今までの森とは異質な雰囲気というのだろうか、それに変わり、たぶんここが神々の森なのだと分かったのだ。
そして、俺は歩き続けた。
途中、珍しく出くわした人は、声を掛けても返答もなく、呆けたような上の空で歩き回っていた。
幸福の実を見つけられず、一週間も歩いていれば俺もあのようになるかもしれないと、薄ら寒い思いをしたが、それでも俺は歩き続けた。
3日ほど森をさ迷った末に森に旅立つときに聞いていた話しと同じ実がなる木々を見つけることが出来た。
実の大きさは拳半個分、歪に丸く紫に色とりどり絵の具で点を滲ませたような色をしていた。
さっそく実に手を伸ばし、もぎ取って、齧りつこうとしたその時、腕を伸ばせば届きそうな距離で一人の爺さんがこっちを見ているのに気がついた。
思わず手を止め、爺さんを見る。
背は俺の胸くらい。不潔感はないもののお世辞にも上等とはいえないボロな衣服を身に纏っている。
髪も髭も伸び放題で、目だけがギラギラとこちらを覗いていた。
こちらが爺さんを見て手を止めたことに気づいてか、少し意外そうな顔をする。
「食べんのか?」
しわがれていたが、思っていたよりよく通る声がした。
俺は上げていた腕を下ろすと、こんな森に何故、爺さんがいるのか考える。
どこかの町や村なら気にはしなかっただろうが、人のいるはずのない森である。
いや、一人だけ住んでいる人がいた。
この森の土地守をしているという爺さんである。
「爺さん。ここの土地守かい?」
爺さんは、ちょっとだけ驚くと小さく頷いた。
「まさか、俺にこの実を食わせないために来た訳じゃあないだろうな?」
「そんなことするなら、とっくにしとるわい。
お前さんがこの森に入った時から、何度も様子を見に行っていたのを気づかなんだか」
何度も…俺が気づいたのは、今が初めてである。
たぶん、すぐ近くまで寄って来てこられていたのもこれが初めではあるまい。
「なら、何しに来たんだ?」
「後始末じゃ」
爺さんは、表情一つ変えずに恐ろしいそうなことを言う。
俺は、相手が手に何ももっていないのを見て確認すると、慎重に相手の動きから目を離さず、少しだけ後ろに下がる。
「後始末?」
「そうじゃ。お主の持っているその実。心臓病の実と言ってな。その実を食うとしばらくして、心臓の病で死んでしまうのでな。その後始末をしに来たのじゃ」
俺は、掴んでいた実を思わず地面に落とすと、手のひらを念入りに拭いた。
爺さんを見ると、愉快そうに声で笑っていた。
「やっぱり、邪魔しに来たのか!」
「邪魔しやせんよ。その実が心臓病の実というのは、本当じゃ」
笑う爺さんについ声を荒げたが、爺さんに動じる様子はなく、まるで世間話でもしているかのような様子に気勢が削がれた。
爺さんの方が俺よりも数段上手であるようだし、何より爺さんはこの森の守人だ。ここで言い争うより素直に実について聞いた方が得策である。
「爺さん。するとこの辺にある実は、全部、その、心臓病の実とかいうやつなのかい?」
「いいや。こっちのは、高熱の実。こっちは、癪の実じゃよ」
爺さんは、同じに見える実を指差しながら、実の名前を次々と口にする。
そのどれもが、幸福の実とは縁の遠そうな病気などの名前ばかりだった。
「なぁ、じいさん。ここにはそんな実しかないのか?」
「もちろんじゃ。
ここは、病の木々というてな。この実を食べたものは、実の示す病にかかるのじゃよ。
そんなことも知らずにお主は来たのかの」
知らずに来るもなにも、ここのことを教えてくれた奴らの誰もそんなこと言っていなかった。
「もう病の実はいいから。今度は、幸せの実について、知っているか?」
爺さんは、何も言わずに歩き出して一本の木にある他と同じような実を一つ示した。
「お前さんもこれが目当てだったんじゃな。これが幸せの実じゃ」
俺は、爺さんの横に立つと、幸せの実を採ろうと手を伸ばす。
「じゃがこれも、お前さんのいう病の実の一つなんじゃがの」
俺の横でぽつりと聞こえた言葉に手を止める。
「爺さん。これは、幸せの実じゃないのか?」
爺さんは、さも当たり前のように話し出した。
「そうじゃ。幸せの実じゃて。
その実を食べたものは、ずーっと幸せしか感じられんよーになる」
「なら、問題ないんじゃないか?
って、幸せしか感じられないって何だ?」
「先ほどから言ってるじゃろが、その実を食べたものは、どんな事されよーが幸せしか感じられんよーになる病になるのじゃ」
「どんなことされても?」
「そうじゃ、殴られようが、罵られようが、腹をすかして死にそうになろうがじゃ。
まぁ、幸せの垂れ流しみたいなものじゃ」
幸せの垂れ流し…。心の中で反芻し、爺さんから聞いた幸せの実の正体を思う。
幸せの感情しかなくなる病だと爺さんは言っていた。
そんな病は嫌だと思う反面、自分はここに来て実を食べる事により、どんな幸せが手に入ると思っていたのだろうと考える。
食べたら、お金持ちになると思っていたのか?
それとも、食べるだけで幸運が降って沸いてくると思っていたのか?
確かにそう思っていたのかもしれない。
だが、お金があるから、幸運だから幸せといえるものでもないのかもしれない。
だったら、病でもこの実を食べて幸せに…。
「ほれ、もう決まったかの?」
気づいたら爺さんは真正面に立ち、実をこちらに差し出していた。
「来る途中に見た、呆けたように歩き回っていた人達は…」
「そうじゃ、この実を食べたもの達じゃよ」
なんとなく分かってはいたが、この森に入ってから出くわした呆けた人達はこの実を食べたもの達だということだ。
緩みきった表情で、ただただ徘徊していたあの人達を思い出す。
確かにあの人達の表情は、幸せに浸り恍惚としていたといえなくもなかったかもしれない。
俺の求めていた幸せは、あんなものじゃないと思う。すると心のどこかで、どこが違うんだという問いが聞こえてくる。
心の内で鬩ぎあいながら時間だけが過ぎていく。
やがて、心を決めて爺さんに向き合う。
その表情は既に迷ってはいない。
「爺さん。決めたよ。俺は…」
その森は神々の住まう森と言われていた。
その森から返った一人の男は言った。
あの森の幸せの実は食べてはいけないと。
人々は言った。
見つけられなかったから、そのような事をいうのだと。
独占しようとして、そのような事をいうのだと。
そして博識のあるもは言った。
そのような実があるはずないし、あの男はほら吹きだと。
そしてある日、男はふらりと消えてしまった。
どこへ行ったか誰も知らなかったが、早朝から仕事をしていた少年が、あの森に向かって歩いていく姿を見たという。
結構、書くのに時間がかかってしまいました。
昼休みにご飯食べてから、書こうとすると結構、時間ないんです。
昼休みに用事があるともう書けないし。
ついでに、当初考えていた流れとどんどん変わっていったというか、次の日には流れを忘れていたというか…
ほっとしました。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません